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トラットリアの外看板を作った。

 まだまだ先は長い旅行記の途中、また差し込み記事。

 実はその旅行(4月前半)を挟んで、地元のイタリアンの看板を頼まれて手作りした。夫婦二人でずっと常連客として通っていた店で、店の二人(シェフとソムリエ)とも親しくしていた結果、5月からは嫁さんがパティシエとして働き始めた場所。
 もっとも(今のところ)看板作りは生業では無いので、材料費と外注費、それと少し揃えた道具類に掛かった費用以外は貰わない代わりに、納期は未定で自由にやらせて貰った結果、結構良いのが出来た。…ので、その話。

 いつもの様にカウンターで呑んでいるときに最初シェフから看板の話が出たのは、確か1月頃だった気がする(去年の暮れだったかも)。それから右葉曲折が少しあった後、鉄製のフレームだけオリジナルで作ってもらったので、それを正式に発注したのは3月中頃だったか(これはアッと言う間に出来た)。
 看板全体のデザインは当初もう少し曲線的だったんだけどなるべく低予算で…ということもあり、フレームは直線的かつシンプルに変更。こんな感じにしよう…と説明しながら書いたスケッチ↓
初期スケッチ
 で、看板部分は木製で…というのが初期からのシェフとの合意事項だったので、やったこと無いけど手で掘ってみることにした。あまり細かい部分があると掘るの大変そうだなぁ〜と思いながら、「一見してワインを出すイタリアンと判るデザイン」というオーダーに応えたもの。正式なロゴが無いので時間があればそれもデザインしようかと思ったけど、ロゴが出来上がるのを待っていると先が長くなりそうなので(まぁ、いずれ)、trattoriaと店名の『LaCutalin』はフォントを少し弄っただけ。なるべく掘りやすそうで、木製の看板に合いそうな温かみのあるカタチに。
 シェフにデザインを見せるのにPhotoshopでささっとそれっぽく作ったんだけど、実際に出来た看板の方が味があって数倍良い(笑)↓
クッタリーナ看板/デザイン画
 …という感じでとりあえずデザインは決まったものの、旅行の準備やらその間の仕事の前倒しなんかで3月は終わって旅行に突入、4月半ばまで作業は1mmも進まず…。結局、看板の板を作り始めたのは4月下旬になってしまった。

 まず、ベースとなる板のサイズは550mm × 600mm(横×縦)。このサイズの一枚板を買うと高くつくので、近所のホームセンターで幅200mmの安いラワン材を横に三枚繋いだ。今回の看板は片面だけなので、裏側にベニヤ板を充てて耐水性の木工用ボンドと木ネジで止めている。
 その板に、プリントアウトしたデザインのアウトラインをトレースした。
クッタリーナ看板/デザインをトレース
 続いて、色を塗るワインボトルとグラスの周りだけ残し、全体を漕いウォールナット色の水性ニスを、とりあえず3回重ね塗り。
クッタリーナ看板/水性ニス塗り

 さて、木工作業…しかも“掘る”という行為は、多分、中学生(もしかすると小学生)の頃に彫刻刀を触ったのが最後だ。で、その35年以上も前の記憶を思い出しても、それはちょっと気が遠くなる作業になる気がしたので、最後の仕上げは手でやるとしても、大まかな作業は電動ドリルの木工用ビットで削れるんじゃないだろうか?…という想像だけで、まずはドリルとビットを用意。後で思えばネットで調べれば良かったのだけど、何故かドリルで削れると思い込んだ。
 そして、騒音も出るだろうし休みの昼間に作業をし始めたところ、これがまた偉い音が出る割には驚くほど削れない…。何日か作業してみたものの、これはもしかすると彫刻刀で手で掘った方が早いんじゃ無いかと思い、とりあえず100円ショップで彫刻刀セットを買って来たのだけど、これがまたクソで全く掘れない。試しに研いでみたんだけど速攻で歯先がこぼれる。まるでイミテーションの刀か?という凄い商品。まぁ、100円で彫刻刀セットを買おうとする方もどうかしてるんだけど、今後彫刻刀を使うことがあるとは思えなかったので渋ってしまった…。
クッタリーナ看板/ドリルで削り始める

 写真無いんだけど、結局『電動彫刻刀』というものを買った。“世界のリョービ”製。amazonで購入したんだけど作業中の動画もあって、これが予想外に振動も無く「スゥ〜」っと切れて行く(木材の硬さにもよる)。もっと『ガガガが!』と振動があるもんだと思っていたのと、値段も意外に手頃だったので即購入。最初に調べておけば良かった。まぁ、どちらかと言えばドリルの方が普段使い出があるんで、前から欲しかったんだけど。

 と言う訳で、格段に作業効率は上がった。とは言えやっぱり早々簡単に出来上がるものでも無いし、最後の仕上げはもとより細かいところは最初から彫刻刀(結局3千円くらいのを買った。気持ち良いくらい綺麗に掘れる)で手で掘ったので、結局全て掘り終えるのに150時間くらい使ったと思う。とにかく掘った面を平らに仕上げるのが大変だった。
 掘っている途中の写真は撮ってないので、全て掘り終えた後にイタリアン・トリコロールの緑/赤を塗ったところ↓
クッタリーナ看板/掘りと色入れ終了。
 (看板が出来た頃カメラが壊れて修理中だったので、iPhone写真で少し画質が悪い)

 色を載せた部分のみ少しペーパーで荒らしてエイジング感を出し、全体に透明なニスを3〜4回塗り重ねた。勿論腐食防止のため。これで実際にはエイジングはほとんどしないはず。木の風合いは減るけど外看板だし。

 さて、フレームに吊り下げて出来たところ(フレームはシェフが作業を一緒にやりたいと言っていたのと、少しでも安く上げるため未塗装で上げて貰ってたのに放置してあったので、結局嫁さんがペンキを塗って仕上げた)。当初は目指していた訳じゃ無かったけど、常連さんだけ呼んだお店の2周年記念パーティーがあったので、その時にお披露目した。最後はギリギリだったけど。
クッタリーナ看板/出来上がり1
クッタリーナ看板/出来上がり2
クッタリーナ看板/出来上がり3
クッタリーナ看板/出来上がり4
 看板上につけたレトロ街灯風の電灯は、ネットで探したもの。クリアな裸電球だけど実はこれでもLED。
クッタリーナ看板/LED電球1
クッタリーナ看板/レトロ街灯
クッタリーナ看板/LED電球2
 裏側は何もなし。ニスを塗ってるのと画質が悪いので解りにくいけど、単なるベニア面。下に空瓶を入れたワインケースを置いて、雰囲気作りと風などで倒れない様に重石に。
クッタリーナ看板/裏側
 という訳で、お披露目の時だけ地下の入り口横に置いた。隣の防炎扉のポスカ絵も僕が描いたもの。
クッタリーナ看板/出来上がり・2周年記念でお披露目

 で、ちょうど看板を外に置いて4週間(2016年7月9日現在)が経ったところ。勿論看板の効果を測れる訳でも無いんだけど、どうもこの1か月で週末に新規のお客様が増えているらしい。5月下旬に地元のマルシェのイベントがあり、そこでの露出の影響もかなりあると思うのでなんとも言えないけど、作った僕のひいき目だと思うものの、今までも置いてあった黒板やOPENの看板、そして巨大なワイン樽(の上に店舗名を描いたボード)が並んでいたときと比べて、看板の緑と赤が目に入って一見してそこにワインバーやイタリアンがあるイメージに感じる。
クッタリーナ看板/外に置いた様子1
クッタリーナ看板/外に置いた様子2
クッタリーナ看板/外に置いた様子3
クッタリーナ看板/外に置いた様子4
クッタリーナ看板/外に置いた様子5

 もう一度書こう。結構良いのが出来たんじゃないの〜。


 あっ、そうだ。スケッチにある様に外灯の根元に鈴(風鈴?)を付けねば…。
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MacBookProの液晶画面が割れた。

 人生において2回目だ。ノートの液晶が割れたのは。
 人生って言うか、自分で初めてノート型パソコンを買ったのが20年くらい前だから、この20年で2回目。台数にしたら5台のうち2台で割ったことになるなぁ。
 
 1度目は、満員電車の中で鞄に入れて持ってたんだけど、会社で出したら割れてた。当時は渋谷の会社に勤めていて、すぐ側にMac専門の修理屋があったので、出社直後に駆け込んでその場で直して貰った。値段も交換部分も覚えてないけど、割れた数時間後には何事も無く仕事で使えてたので助かったのは覚えてる。

 で、今回2度目。機種はMacBookPro retina 15inch(2012 mid)。買って3年半ほどになる。500GBのSSD、16GBのメモリーと載せられるだけ載せた仕様で、今までに不具合はほとんど無い。

↓割れて一部表示できなくなった。左側の縦の黒いライン。
MacBookPro retina 15inch モニター割れ1
 モニターの左下を割ってしまい、その幅に合わせる様に縦にスジが無数に伸び、幅3〜4cmほどが黒くなっている。ワイド画面が標準サイズにになってしまった感じ。またこの写真では判りにくいけど、画面下側にも横に数本かスジが入ってる。

↓画面左端の拡大
MacBookPro retina 15inch モニター割れ2
 一番左端には色が付いているけど、画面上のものは何も見えない。この写真では画面下半分のエリアに何本か横スジが入ってるのも見える。

↓割れた部分の拡大
MacBookPro retina 15inch モニター割れ3
 左下端から画面中心に斜め上に伸びる様に、2本のヒビ割れが…。

 何でこんなところが割れたのかと言うと、出先で作業中に席をちょっと外す時に蓋(画面)を閉じた時、MagSafeコネクタが外れていて気づかず挟んでしまったのが原因。

↓こんな風に外れたMagSafeコネクタが本体に乗っていて…
MacBookPro retina 15inch モニター割れ4
↓それに気付かず蓋(ディスプレイ)をこんな風に閉じてしまった。軽く閉じただけなんだけど、一番負荷が掛かる根元だったので簡単に割れたらしい。
MacBookPro retina 15inch モニター割れ5

 ただ、席に戻って作業を再開しても画面に変化が無かったので、しばらく割れたことに気づかなかった。打ち合わせ場所に移動する時に再度蓋を閉じて持って歩き、改めて画面を開いたら最初の写真の様になっていて、その間どこかにぶつけてもいなかったのと、少し前にMagSafeコネクタを挟んだことを暫く思い出せず、何でモニターが割れてるのか最初は分からなかった。


 これが一昨日の出来事。このマシンは仕事で使う唯一のパソコンなんだけど、普段自宅の仕事場で作業する時は27inchの外部モニターに繋いでいて本体側の画面はメーラーやテキスト資料を開く程度なので、この程度画面が狭くなるのは、まぁ、我慢できるのだけど、ちょっと今月から出先で作業することが多くなったので、今のところ本体のこの15inch画面のみが作業領域で、デザイン作業するにはただでさえ狭い。それに持ち歩くとなるとどんどん見えない部分が広がって来そう…(既に最初より少し広がってる)。
 余計な出費だ…と「orz」状態の頭で中古パーツとか探してみたけど、無さそう…だし、どうもMacBookはretina以降、交換作業自体が難しいらしい。もう購入後3年半だし買い替えるか…とも思ったけど、今、その余裕が無い。修理代ですら痛くて少しでも安くあげたい訳で…。
 そんなこんなで1日半ほど悩んだけど、放置していても自然治癒する訳でもないし、腫れ物に触る様にマシンを持ち歩くのも、作業効率が落ちるのもストレス。修理代を少しでも安く…というのもあるけど唯一の仕事機を預ける訳にもいかないので、結局以前の様に持ち込みでその場で直して貰うことにした。

 「MacBookPro retina 液晶交換」とかで検索すると、上位に出てくる工房が新横浜にあった。『KSCAT(ケーズキャット)』という工房。他にも探してみたけど、retina画面のMacBookの修理自体を受け付けているところがあまり無く、ここで修理した人のblog記事なんかも検索で出てきて評価も高く信頼できそうなのと、表示してあった金額も(そもそも金額表示している工房が少ない)中では一番安かったので、“事故”から2日明けた昼前に悩むのを止め、予約の電話をしてバイクで新横浜まで(久々に第三京浜を走った)。

 工房の場所は新横浜のラー博の隣の雑居ビルの4F。中に入ると、ゴチャっとパソコンパーツが散乱していて、ひと昔前の秋葉原の裏手の店のイメージ(今もそういうのあるのかな?)。かなり怪しい雰囲気だけど店の人は凄く丁寧かつ気さくな感じで、初対面だけど話もしやすくてこの手の店に居そうなPCオタク的な匂いのしない人だった(先入観持ち過ぎ!)。

↓店の入り口のドア。
KSCAT入り口

 今日だけで10件以上液晶交換の予約が入ってるらしい。僕が何人目か忘れたけど、僕の直前の客も全く同じ機種で、同じ様にMagSafeコネクタを挟んで割ってしまった…と。世の中結構似た様な不注意で余計な出費をする人が居るんだなぁ〜と、若干『orz』感が減る。

 液晶シートだけ交換する場合、MacBookPro retina 15inchは税込約¥4.4万円ということなんだけど、僕の場合(僕の前の人も同じ)、液晶背面の光を分散するシート(の様なものらしい)まで負荷を掛けて変形させている様で、液晶シートだけ交換してもその部分(つまり割れた辺り)が白く光ってしまうらしい。…と言う実例を、店の人のMacBookがそうなっていて見せてくれた。場所は画面の左下隅だし少しでも安くあげる為に無視しようかと思ったけど…ちょっと常に目に入りそうな嫌さ加減。で、そのシートが5千円ということで、税込5万円ほどの修理代になった。
 ちなみに、アップルストアで修理すると12万円ほどかかるらしい。しかも2週間ほど預けないといけない。自分で調べた訳じゃ無いんだけど、その僕の前の同じ症状のお客さんがジーニアスバーでそう聞いてからウチに来た…と店主。

 交換作業には1時間半ほど掛かるので作業終了後携帯に連絡するとのこと。ならばと(昼飯喰ったんだけど)隣のラー博に復活した大好きな札幌“すみれ”でミニラーメンを食べ、逆の隣のフレッシュネスバーガーで珈琲を飲みながら待つ。1時間15分ほどで携帯が鳴った。

 さて、綺麗に直った。画面縁の黒いゴム(シリコン?)が劣化していて剥がすのが大変だったらしいけど、なんとか再利用してくれた様で、ありがたい。元々画面にはキーボードの跡が一部付いていたりもしたので、それも無くなり新品のMacBookと交換したみたいだ。実は僕のMacBookProのretinaモニターは画面にムラが出たりコーティングが剥がれやすい不具合があったらしく、今回の修理交換でその後の対策品に変わったのもちょっと嬉しい。まぁ、有料だけど…。

 マシンスペック自体に未だに不満は無くまだまだ現役で使いたいので、後はSSDが突然死しないことを祈るばかり…。
MacBookPro retina 15inch モニター割れ6
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鉄道模型趣味、と言うか…。

 “CD断捨離”の記事の冒頭で一言だけ触れたけど、子供の頃に集めたNゲージの鉄道型を、割と最近まで処分せずに(実家に)とってあった。いや、普段目にしないが故に忘れて放置していた…というのが現実に近いか。

 小4か小5くらいだったか、名前は忘れたけど文庫本サイズほどの鉄道模型の本を手に入れた。その本には“Nゲージ(線路幅が9mmの規格)”の詳しい説明やカラー写真も沢山掲載されていて僕はボロボロになるほど読み返し、1:148〜160のリアルな鉄道模型の世界にグイグイ惹き込まれた。物心着いた頃には既に鉄道が好きだったし、鉄道に限らずミニチュア模型やジオラマに惹かれる体質だったので(これは今でもだけど)、当然の流れだ。
 ただ、残念ながらお金持ちの家の子では無かった僕は、大人の趣味である鉄道模型を早々買い集めることは出来ず、たまの親へのおねだりや少ないお年玉を使って、2〜3ヶ月に一度、1両ずつ買うのが精一杯で、普段は模型店のショーウインドウを端から端まで1時間くらい眺めて帰る…というのが、小学生だった僕の鉄道模型趣味の“楽しみ方”だった。

 一番最初に買ったNゲージは、国鉄最初のブルートレイン『あさかぜ』(東京〜博多間)登場時にデビューした“20系”という型式の中で、編成末端に連結されていた“ナハフ20"という車両。“鉄な人”なら20系と言えば最初に思い浮かぶ顔的な車両だ。確か当時千円しなかったと思うけど、小五の僕は最初に何を買うか相当迷ったのを覚えている。その頃ブームだったスーパーカーの1:24のプラモデルとほぼ同じか少し高かったので…(プラモデルは買った後作って楽しめるけど、鉄道模型の車両は揃えて走らせるまでは…)。
 その後編成のもう一方の端になる電源荷物車の“カニ21”、中間に挟まれる食堂車の“ナシ20”と数ヶ月掛けて増やし、確か当時5千円くらいした牽引車(つまりモーター付き)の“EF65-500番台”をもの凄く緊張して購入し、漸く最低限の1編成ができたときは嬉しかった。ただ、ブルートレインなのに寝台車両が1両も入って無いという状態だったけど…(ナハフ20は座席専用車両)。
 でもその後は20系熱が若干冷め、同じブルートレインでも新型の24系を揃える方向に行ったり(当時発売されたばかりの24系は細部の出来が良くて)、電車型寝台の581系や“湘南電車”と呼ばれていたオレンジと緑色の近郊型の113系(この辺りはTOMIXが安かったのが理由だった様な…)、他は400〜500円で買えた貨物車両等をおこずかいが少ないときに“小腹を満たす”的に買っていて、結局20系寝台車は最初の3両以降増えること無いまま、中学時代半ばからはおこずかいはLPレコードへの変換がメインになっていった。
 ただ、鉄道への興味自体は中学以降も続いていて、交通公社の時刻表は愛読書だったし、たまに“撮り鉄”になったり(勿論そんな言葉はまだ無い)、鉄道関連の月刊誌(鉄道模型趣味、鉄道ファン、鉄道ジャーナルの3誌と、たまに鉄道ピクトリアル)を毎号買い続けるほどだったけど、それも大学一年の夏に二輪の免許を取ると同時に鉄道への興味が一気に冷めてしまった。国鉄からJRになってしまったのもあったかもしれない。鉄道のこと自体を嫌いにはならなかったけど(横浜の“原鉄道模型博物館”には感動した!)。

 で、そこから30年近く経って冒頭の断捨離に戻るんだけど、赤羽に“ヤマナカ模型”というちょっと大きめの模型&モデルガン屋があり、そこは鉄道模型の引取もやっていて、1〜2年前に試しに持って行ったら意外にもいくらか値段がついた。そのときは「ブルートレインだけ残そう」と編成が揃っていた24系も残したものの、たいして思入れは無いと考え直して結局24系5両1編成は処分した。鉄道模型を残すのでは無く、あの頃自分が感じていた“空気感”みたいなイメージを形にしておこう…と、一番最初に買った20系の3両とEF65(どちらも一部壊れてたのもあり)だけ残すことに。
 そうなると気になるのが『ブルートレインなのに寝台車が無い』という点。断捨離したのに新たに買い足すなんて本末転倒だし、買い足すのは「思い出なのか?」ということもあり、あまり考え無いようにしていたんだけど、先週またちょっと思い出してヤフオクを見ていたら、丁度足りなかった当時の旧製品版の2両が1500円で出品されていて、思わず落札。約40年掛かって20系のブルートレイン1編成がコンプリートした(旧製品は当時5種類のみ)。
 実はヤフオクで検索すると20系は沢山出品されてるんだけどそのほとんど’が新しいモデルで、比べると流石にディテールの出来が素晴らしいし、車両の種類も凄く増えていてちょっと買い揃えたくなるほど。…勿論買わないけど。
 兎に角、足りない寝台車だけ最新モデルになるのも…と思っていたので、ちょうど欲しかった2両の旧製品が出てたので、もうこれで思い残すことは無い(…なんだかんだ言って実は結構満足)。

 鉄道が趣味では無くなってからも心の隅にはずっと、生涯一度くらいは鉄道がメインの超細密な“ジオラマ”を作ってみたいという気持ちが消えずに残っていたんだけど、去年“ドロオフ”という模型作りの有志の展示会や、つい最近巣鴨にある“さかつうギャラリー”で超細密な模型やジオラマを見て久しぶりに模型熱が触発されて、あのレベルは無理としても自分で少し作ってみたくなった。あまり趣味を増やしたくは無いんだけど…(苦笑)
 まぁ、そんな訳で、手元に残したブルートレイン1編成を飾るための細長いショーケースを、ちょっとした“風景”付きで作ろうと思ってる。イメージは夜のホームに停車中のブルートレイン。ストラクチャー(建造物等の意味)も含めてなるべく市販品を使わず手造りして、既存製品も出来る限り細部まで手を入れてみようと思う。なので車両も作りの甘い旧製品でOK。子供の頃に憧れた国鉄時代の“寝台特急の旅情”をディスプレイ化するのが目標。

 とは言え、少しずつ気長に。

Nゲージ/KATO/旧製品/EF65-500+20系(1)
この6両編成で全長80cm弱。
Nゲージ/KATO/旧製品/EF65-500+20系(2)
後ろから。最後尾のナハフ20の丸い屋根が20系の特徴。
Nゲージ/KATO/旧製品/EF65-500
EF65 500番台。最初のブルートレイン牽引専用カラーの電気機関車。「やっぱり500番台がカッコイイなぁ〜」とか言ってた気がする。
Nゲージ/KATO/旧製品/カニ21
カニ21。『カ』は重量級客車の意味で、『ニ』は荷物車。20系はこの車両に編成の電源を集中し(だから重い)、客車の屋根部分を車両限界まで高くし空間を広げた。荷物部分は5t積めたらしい。
Nゲージ/KATO/旧製品/ナロネ21
ナロネ21。『ナ』は軽量客車、『ロネ』はA寝台の意味。ちなみに『ロ』だけだとグリーン車。『ネ』が寝台の意味。
Nゲージ/KATO/旧製品/ナシ20
ナシ20。『シ』は食堂車の意味。昔は特急列車と言えば食堂車がついていたけど、子供の僕には食堂車付き特急を選べる選択権は無く、極稀に食堂車で食べれたときは嬉しくて仕方なかった。
Nゲージ/KATO/旧製品/ナハネ20
ナハネ21。『ハネ』はB寝台の意味。『ハ』だけなら普通車。B寝台の三段ベッドの一番上に寝るのが好きだったけど、実は上野発の581系ばかりで20系に乗った記憶が無い(多分幼稚園の頃に一度乗ってる筈…だけど)。
Nゲージ/KATO/旧製品/ナハフ20
ナハフ21。『フ』は緩急車(車掌室と手ブレーキ設置)の意味。しかし、寝台特急に座席車両があったのが不思議(後に全て寝台車に改造されナハフは消えた)。
Nゲージ箱/さらば宇宙戦艦ヤマト
小学生当時作った“さらば宇宙戦艦ヤマト”のプラモデルの箱に入れていたのが、今もそのまま。ヤマトのプラモデルは数年持たずに爆破/撃沈された気がする…僕に。
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ラテの思い出。

 一昨日10月5日のお昼12時10分頃、ウチの愛猫『ラテ』が死んだ。子猫の頃から2年ちょっと、短い人生(猫生)だった。

 '13年の確か7月頃のある日、突然マンションの敷地内に子猫が現れた。多分生後3〜4ヶ月。部屋にいたときに外から猫の声が聞こえて来たので(僕は猫の声にすぐ反応する)出てみると、エラい大きな声で「ナァ〜!ナァ〜!」と鳴き続ける子猫が。その必死な様子が可哀想(なのと可愛いのと)で、一度部屋に戻り皿に餌を入れて近づくと、「ハァ〜!」と怒る。少し離れると「ナァ〜!ナァ〜!」とまた哀願するので、皿を置いて僕だけ離れると子猫は近寄り皿の餌を食べ始めた。
 白い毛並みに若干茶色の混じった色合いを見て、僕はその場で『ラテ』と名付けた。

 毎日マンション1階に餌と水を置くようになって暫く経ったある日、玄関のすぐ向こう側くらいから大きな鳴き声が聞こえる。やけに近いなぁとドアを開けると目の前にラテが。開けた途端に「ハァ〜!」と怒ったけど。どうやって2階のこのドアの主が餌を持ってくる人だと判ったのかは謎。それまでラテが階段を上がって来てたのを見たことは無かった。その日から餌と水は玄関の前に出すことにした。
 それからどのくらいだったか(多分2〜3週間)、今度はベランダ側の窓の外から鳴き声がするので開けると、ベランダにラテが。えっ?どうやって?と驚いたけど、ベランダ下の貯水タンクの上からジャンプしてきたらしい。よくそこがウチのベランダだと判ったなぁ…。ベランダに放置していた小さいロッカー型物置の中にベッドを作ると、ラテはそこで寝るようになった。いつもどこで寝てるんだろう?とちょっと心配していたんだけど、寝床を把握できて少し安心した。
ラテ写真一番古いもの
残っているラテの一番古い写真。玄関まで入って餌を食べているときだけ触らせてくれたけど、食べ終わると逃げる様に出て行く。'13年9月16日

 その年の10月、4日間の台湾旅行で家を空けることになり、その間マンションの隣人の友達に鍵を預けて、リム(は元々飼っていた猫)とラテの餌の世話をお願いした。勿論ラテは外暮らしなので餌を玄関前に出しておいて…と。そして旅行の初日の夜、その隣友人から餌やりの様子が写真でスマホに届く。で、ラテも部屋の中に居た…と。いや、入れて無いんだけど…。ウチの各部屋の窓には上側に小さなスライド小窓が付いていて、旅行中の換気のためにその小窓を開けておいたんだけど、ベランダ窓の小窓が開いていることにラテは気が付き、どうやらそこに飛び乗って入ったらしい。ベランダのロッカー型物置の上からでも、その小窓の小さく開いた部分(縦15cm×横40cmほど)まで距離も高さもあるのに…。ラテは観察力も身体能力も凄かった。

 ラテが部屋の中で過ごすようになったのは、この年の年末に近かったと思う。餌を室内で食べるようになってからも最初は食べ終わると逃げるように外に出て行ったんだけど、そのうち食べ終わってから僕ら夫婦が近づいても動じなくなり、部屋の中で暖かい場所を勝手に探し(大抵は元々リムのスペース)て寝るようになった。
 最初のうちは、夜になるとベランダの寝床にラテを寝かすようにしていたんだけど(実は賃貸の契約で1匹しか飼えない)、いつの間にか夜もウチの中で寝る様になった。とは言え、ノラの習性は抜ける訳も無く、1日に一度は「外に出して〜」とばかり、玄関脇やベランダ側窓横の壁をカリカリ爪研ぎをして僕らを呼び、そこでドアや窓が開くのを待つ。おかげでその部分の壁紙はボロボロ。もうウチの猫と思ってからは本当は外に出したく無かったんだけど(病気とかあるから)、閉じ込めっ放しもストレスで身体に悪い気もして(少しラテが嫌いなリムにも)、出たいと言うときは出していた。

 昼夜に限らず自由に外を出歩くので、ラテは時々他所でも餌を貰っていたらしい。前出の隣友人からもそうだし、同じフロアの別の住人からも。隣友人は僕に倣ってラテと呼んでいたけど、その同じフロアの人は別の名前で呼んでいた様だ(一度聞いたけど忘れた。和風の名前だった。 後に再度聞いたら“きなお”だった。きな粉のことだと思う)。向かいのアパートの人や(ラテがそのアパートの庇の上でよく寝ていた)他でもラテが餌を貰っているのを、僕は何度か目撃している。ラテはいくつ名前があったんだろう? 過去に2回か3回、2〜3日帰って来ないことがあって都度心配だったけど、もしかしたら他所でも部屋に入れていた人がいたかもしれない。
部屋で暮らし始めたラテ(と場所を侵食され始めたリム)
部屋で暮らし始めたラテ(左)と、ちょっと嫌がるリム(右)'13年12月31日
デスク上のラテの定位置
僕の仕事デスクの右隅がラテの定位置のひとつ。ここも元々はリムの場所だったけど。'14年5月17日
猫お約束の箱入り姿。『ラテ丼』。
上の写真と同じ箱で、猫写真お約束の『ラテ丼』。'15年7月8日

 ラテはよく、ウチの部屋の真下にある、敷地内のちょっとしたスペースに座っていた(そして下の部屋の人からもベランダ越しに餌を貰っていた)。ラテの“外回り”のルートは知らないけど、どうやら最後はそこに座るのがお決まりらしかった。
 嫁さんが仕事から帰ってくるときそこに居るラテを見つけると「ラテ〜」と声を掛けるんだけど、外で会うラテは僕らを見ても少しノラの顔をしていて、側に近寄ろうとすると若干後退りする。でも、やっぱり嫁さんのことは分かるようで、嫁さんが玄関開けて入って来た少し後から階段を上ってきて、「ナァ〜(開けて〜)」と鳴く。
 また、中々ラテが帰って来ないときは、ベランダから下を見ると大抵はそこに座っているので、「ラテ〜」と呼ぶと上の僕を見て「ナァ」と鳴いて歩き始める。僕は玄関に回ってドアを開けて待っているんだけど、「ナァ〜、ナァ〜」とずっと鳴きながらピョコピョコと階段を上ってくる姿が愛おしかった。

 この半年くらいだったか、僕らが寝る0〜1時頃にラテは外に出て行き明け方4〜5時頃にベランダから戻ってくる…という生活サイクルになっていた。暖かい時期だからベランダの窓は網戸状態で、ラテも未明で辺りの静けさに気を使うのか遠慮がちに「ナッ」と小さく短い声で一度だけ鳴くんだけど、その小さな声で僕は目が覚めて網戸を開ける。僕はすぐに布団に戻ってまた眠りに落ちる間にラテはリビングの餌場に直行。少しして餌を食べ終わったラテは布団に入ってきて僕の腕に頭を乗せて眠る…という毎朝のパターン。ラテがゴロゴロと喉を鳴らす音は大きく喧しかったし、あと、息が臭かったけど。多分内臓が悪くなったせいだろう。僕の顎に頭をグリグリと押し付けて甘えて来たときの感覚は今でも残ってる。
オレとラテ。クリスマスの朝。
'14年クリスマスの朝。まだ布団で寝ている僕とラテ。'14年12月25日

 一番最初にラテの異常に驚いたのは、去年の元旦、急にびっこを引いて歩き始めたとき。足を触っても特に反応しないんだけど、前足(右だったかな?)を着くときに力が入らないのかピョッコンピョッコンと歩く。病院に連れて行こうかどうか迷ったけど、結局それは2〜3日で何事も無かった様に消えた。
 次に驚いたのは今年の3月初旬に黄疸が出たとき。歯茎も鼻も唇も耳の中も真っ黄色と言えるほど。ネットで調べると黄疸が出た猫は(死ぬまで)早い…とか書かれているので、慌てて病院に連れて行った。ただ、黄疸が出ている以外は全く普通。食欲もあるし動向に何の変化も無い。結局血液検査だけで2万円取られて何も治療しないまま、一週間ほどで黄疸は消えた。もっとも検査の数値は一部酷く悪くて、このとき初めてラテが健康体では無いことを意識したんだけど。

 その後も急激に痩せたり(と思ってたら元に戻ったり)、やたらとヨダレを垂らす時期があったり…と、そんなに長くは生きられない猫かも…とは思っていたけど、さすがに2年ちょっとは予想外の短さだった。
 僕は自宅が仕事場なのでほとんどずっと猫達と一緒に過ごす訳だけど、リムは家猫だから事故や伝染病に対しては比較的安心できる反面、毎日必ず出掛けるラテのことはいつも少し心配で、この2年ほどの間はラテの存在は僕にとって特別だったかもしれない。そういう意味では大きな心配のネタがひとつ減った訳だけど、外階段を鳴きながら上がってくる姿や、明け方ベランダの外で一声だけ「ナッ」と短く鳴いて網戸が開くのを待っている姿がもう見れないのは、やっぱり少し寂しい。室内だけじゃ鳴く、マンション敷地内や周辺にもあちこちラテの思い出が残ってる。
マンションの外廊下で昼寝するラテ。
マンションの外廊下で昼寝するラテ。僕ら以外の住人が近付くと逃げるけど。'14年7月25日

 小二のときに初めて猫を飼って以来、十数匹の猫達との別れを経験しているんだけど、死ぬのはいつも学校や会社に行っている間だったり実家を出た後の出来事だったから、今回初めて死に際を看取った。それとわずか2年弱とは言え、こんなに日常長い時間一緒だった猫が死んだのも初めてだ。結局のところ、実家の猫はお袋が飼っていたようなもので。
 ラテは最後の2〜3時間、急に呼吸の間隔が短くなり、残りの1時間弱は何度も身体が痙攣を繰り返した。多分苦しかっただろうと思う。目を見開いたまま呼吸が止まった直後も、身体がビクッ、ビクッっと十数秒間隔で2〜3回大きく動いた。まだ生きてるのかな?とお腹の動きを見つめたけど、やっぱり止まったまま。自分で猫の死亡を確認するのは初めてだから、なんだか「死んだ」と思って良いのかどうか一瞬迷った。暫くして身体が硬く冷たくなってくるから、「ホントに燃やして良いのかな?」という心配をするまでも無かったけど。

 最後の10日間ずっとほとんど寝ていて食べても無かったので、すっかり骨と皮の状態になっていたけど、それでも自分でトイレに行ったし(お漏らしもしたけど)水も飲んでいた。寝ていた場所も時々自分で移動していたし。3日目から注射器型のスポイトで流動食を舐めさせるようにしていたけど、5日目くらいから少し自分で食べるようになっていたし、死ぬ前の晩に寝床の横に少し出してあった餌も朝には無くなっていて、最後の朝も寝床から出て来て僕の方に鳴きながらヨロヨロと歩いて来ていたので、また少し元気になるかな?と思ったりもした。とは言え、症状から明らかに腎臓が悪く、それはどうやら治ることも長生きすることも無いらしい…というのは知っていたから、その後すぐに呼吸が急に短くなってからは、今晩は持たないかもしれないなぁ〜と思い直した。まさかそこから2〜3時間で死んでしまうとは思って無かったけど。

 ただ、良かったと思うのは、たまたま嫁さんが仕事が連休だったこと。最期を一緒に看取れたし、翌日火葬場へ亡骸を預けに行くときも一緒に行ってお別れをすることができた。ラテが嫁さんの連休を狙ったとは思えないけど、二人が朝からずっと部屋に居たから安心して力が抜けたのかもしれない。
抱き上げるととにかく脱力するラテ。
抱き上げると全力で脱力する猫だった。'14年3月31日

 ラテが死んだ5日の夜、前述の元隣友人(結婚して引っ越した)夫婦との飲み会の予定をたまたま入れていたので、そこでラテの死を直接伝えられた(これもラテは知ってたのか?)。で、帰って来てから酔っていたせいもあり、留守番させていたラテの亡骸を見て初めて急に涙が出て来た。去年好きだったお袋が死んだけど、未だに一粒の涙も流して無いのに(苦笑)。猫が死んで泣いたのは、小二のときに僕にとって初めてのペットだった“ニャン太”が、たった半年ほどで事故で突然死んだとき以来かも。

 もしかしたら、強引にでも部屋に閉じ込めて飼っていたら病気にはならなかったかもしれない…とも思わなくは無いけど(病気は生まれつきだったかもしれないし、死因も調べて無いけど)、外に出たがりつつも必ず帰って来て一緒に寝てくれることはラテが自分で選んだ訳で、強要しなかったが故に僕らが得られた幸せだとも思う。短い間だったけど僕ら夫婦のところに来てくれてありがとう(…とラテに言っておいた)。
ラテの一番可愛い顔の写真。
多分一番写りの良い顔のラテ写真。'14年2月8日
死んだラテ。黄色い花が似合う。
最後のラテ写真。'15年10月5日
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喜寿。

 ちょっと前、先月30日の話。

 7年前、両親の古希の祝いということで、当時まだ独身だった弟と離婚したての僕との家族4人で、お台場のホテル日航東京で記念撮影と食事をしたことがあった。それが何年前だったかはすっかり忘れていたんだけど。先月お盆に帰省したときにそんな話も出なかったし。
 帰省から戻って何日かしてから弟からメールが来た。「ホテル日航東京が9月一杯で営業終了するらしいんで、その前に一度みんなで行きたいんだけど、来ない?」と。なんか日航東京が無くなってしまうのがちょっと寂しいと言うのだ。ホテルは10月から“ヒルトン東京お台場”になるらしい。ちなみにこのときもまだ“喜寿”の話は出ていない。
 なんで弟がそんなにホテル日航東京に思い入れがあるのか不思議だったんだけど、どうやら会社の海外出張で貯めているJALのマイルが使えるので、時々食事なんかに来ていたらしい。勿論僕は7年前に一度行ったっきり。
 まぁ兎に角、親父と弟夫婦と生まれたばかりの姪っ子達は一緒に食事&宿泊をして、ついでにまた家族写真を撮ると言うんで、我が夫婦も記念撮影と食事だけ参加することにした。このときもまだ、僕は親父の“喜寿”には気付いていない。

 前回は食事の前にたまたま少し時間が空き、急に思い付きで記念撮影することなったんだけど、今回は前もって写真スタジオも予約したので、待ち時間もほとんどなくスムーズに事は進行した。
 撮影直前スタジオの女性に「ご家族で何かの記念ですか?」と聞かれたので、僕は「なんか、ホテル日航東京終了記念みたいです」と冗談交じりに返し、スタッフ側の作り笑顔を若干微妙な感じにしたんだけど、一瞬間をおいて弟が「まっ、今月は親父の喜寿の祝いでもあるんだけどね」とサラリと。そこで初めて知った。えっ?あっ、そうだっけ。今年は2015年。親父は1938年8月生まれ…で引くと。

 まぁ、そんな訳で、7年前から3人増えて1人減った同じ苗字の家族写真を無事撮影した。
ホテル日航東京/喜寿記念撮影1
ホテル日航東京/喜寿記念撮影2
 撮影後、7年前と同じ和食の店に移動。「さくら」という店。今回は人数も少し多いし赤ちゃんも居るので、弟は個室を予約していた。久しぶりに贅沢な雰囲気を味わった。
ホテル日航東京/喜寿お祝い食事1
 前回は和食も日本酒もよくわからないまま弟と2人でワインを飲んでたけど、この7年間で日本酒に対する舌は相当肥えて、それに合わせて(多分加齢もあり)和食がかなり好きになっていたので、ただ美味しいだけじゃなく心に沁みる。ゆっくりと楽しい家族水入らずの贅沢なお酒と食事になった。…あっ、祝いの席になった。
ホテル日航東京/喜寿お祝い食事2
ホテル日航東京/喜寿お祝い食事3
ホテル日航東京/喜寿お祝い食事4
ホテル日航東京/喜寿お祝い食事5
 個室を予約したからなのか、テーブル横にクーハン(と言うらしい。乳児用のカゴみたいな小さなベッド)が用意されていて、姪っ子はたまに一瞬ぐずるくらいでずっと大人しく寝ていた。約2週間ぶりの再会だったけど、何故かやっぱり可愛い。
ホテル日航東京/喜寿お祝い食事6
ホテル日航東京/喜寿お祝い食事7
 食事の後、その日泊まる弟夫婦と親父の隣同士の部屋の“見学”を兼ねてお邪魔し、少し休憩。部屋に入るなり早々に眠ってしまった喜寿の親父は良いとして、一人部屋で赤ちゃんの世話をする義妹には申し訳ないと思いつつ、弟と僕ら夫婦の3人でお台場のショッピング・モール内のイタリアンへ。喜寿の祝いには参加できなかったお袋の思い出話を肴にワインを1本空け、都内の僕らはゆりかもめの台場駅の改札口で弟に見送られて帰った(その後新橋でもう一杯…のつもりが、日曜夜で店がどこも開いてなくて仕方なく帰った…というのは秘密)。
ホテル日航東京/部屋からの夜景
 翌朝弟から、“ホテルのロビーでドラマの撮影中”とメール。『ホテルコンシェルジュ』というドラマのロケ場所だったらしい。へぇ〜、知らないけど「姉さん事件です」。
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お盆の帰省。

 一昨々日、千葉の実家に一泊だけお盆で帰省した。実家での法事に出るため。去年は6月頭に母が亡くなり、初七日、四十九日と7月下旬まで法事が続きお盆はスルーしたので、今年初めてお盆にお経を上げて貰った。

 で、気付いたのだけど、生まれてこのかた本来の意味でお盆の帰省をしたことが無かった。子供の頃は母親の実家である札幌へは夏休みにも何度か帰ったことがあるけど、その頃はまだまだ祖父母とも元気だったし、夏休みがあまり無かった親父と実家の鹿児島に行ったことは幼少の頃に1度しか無く若干疎遠だったので、ずっとお盆の帰省とは無縁だった。僕が実家を出てからは夏の帰省先はたまの札幌から毎年千葉になり、わざわざ料金も高く混んでいるお盆時期に札幌に行くことも無くなり、今年が49歳にして初めて本来の『お盆の帰省』になった。

 実家の仏壇の前でお坊さんにお経を上げて貰った。身内だけの法事なので全員の焼香もすぐに終わり恙無く終了。僕と同世代らしきお坊さんは、実はバイク好きで大型バイクに乗っており…という話は、死ぬまで僕がバイクに乗っていることに反対していたお袋には内緒にしておこう。

 法事が済んだあと、実家から車で数分の墓地へ墓参り。一周忌からまだ二ヶ月しか経っていないので久しぶりという感覚も無いけど、来る度に季節は変わるのでやはり頻繁とは言えないな。次はいつになるだろうか。今年の春に首都高のC2が湾岸まで繋がり、バイクなら実家まで1時間掛からずに帰って来れる様になったけど、やっぱり中々足が向かないモンなぁ…。
 一緒に眠る“ねこ達”にも一言挨拶してお墓を後にした。
2015お盆墓参り
 今回の帰省で、6月中旬に弟夫婦の間に生まれた長女と初対面した。父にとっては初孫。当然僕にとっても初姪っ子になる。自分の子供では無いから、いとこの子に対する感覚と然程変わらないかな?と想像していたけど、生後二ヶ月の姪っ子を見た途端、なんだか妙に可愛く思えた。どういう神経構造なのか全く分からないけど不思議なモンだ。弟や僕の赤ん坊の頃の写真にどことなく似ていて、やっぱり血の繋がりは感じた。似てるから可愛く思える…と言う訳では全然無いんだけど。

 弟がポツリと「あと1年生きててくれたらなぁ」と。勿論、お袋が待ち望んでいた孫の顔を見れたら喜んだだろうし、もしそんなお袋を見れてたら弟だけではなく僕も安心しただろうけど、まぁ、仕方ない。ウチの家系からようやく一つ下の世代に繋がったことが良かったなぁ〜と思うし、それ以上に目の前に居る姪っ子の姿に愛おしさを感じることが、単純に幸せだと思う。

 その弟の一言を聞いて、僕もひとつだけ心残りがあった件を話した。自分を生み育ててくれた感謝の気持ちみたいなことを、結局お袋に伝えそびれて終わってしまったこと。もしかしたらなんとなく伝わっていたかもしれないけど、お袋が安心するような生き方は何一つしていないので、やはり口に出さなかったことは少し後悔していた。
 なんて弟に話したら、「でも、それって死に際の別れの言葉みたいで、まだ生きてるときに話すタイミングが判らなかったよねぇ」と。そうだ。そうだった。その通りだ。どうやら弟もそう思っていたらしい。

 結局のところ、生前の出来事…何もしなかったことも含めて…がお袋との全てで、それ以上でも以下でもないな…と、改めて感じたお盆の帰省。


僕と嫁さんの叔父さん叔母さん振り↓
姪っ子初対面
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『ビラパワ』という名の石窯ピザ屋。

 前回書いたCX-3の無料試乗ドライブ記事で予告した件を早速。

 新車をタダで8時間も借りれるということで、折角だから市街地や高速だけでは無くちょっと山道も走ってみたいし、山の方に行くなら日帰り温泉でも…と、実は最初は奥多摩に行くつもりだったんだけど、そこの日帰り温泉の口コミにいくつかあった微妙なトーンに若干怖気付き、代わりに選んだのが秩父温泉にある“満願の湯”だった。
 で、ちょうどお昼頃に着くから温泉の後にどこか良さげなランチ・ポイントは無いかなぁ〜と適当に検索していたら、最初に別のピザ屋に目が止まったんだけどその日が定休日で、もう一軒『ビラパワ』というちょっと不思議な名前が目に入り、アップされていたピザの写真も美味しそうだったし、“石窯”と“古民家改装”というワードに惹かれて行くことにした(しかし、長瀞には2件もピザ屋があるのか…)。つまり、この店に行ったのは偶然が重なった結果で、僕らはここに呼ぼれて今回CX-3を借りたのかな?…と思えるほど、この店が気に入ってしまった。

 店は少し山の中に入った細い道沿いにある。入り口の看板はすぐに目に入った。
『ビラパワ』入り口
『ビラパワ』自転車置き場
 そんな訳で、店については『ぐるなび』をチラっと見ただけだったので、実は30〜40代くらいの夫婦が都会を離れて田舎の民家に手を入れ始めた店…みたいな感じをなんとなく勝手に想像していたんだけど、僕(49)より年上の優しそうなご夫婦が出迎えてくれた。
『ビラパワ』石窯のある庭先。
『ビラパワ』カウンターの看板
 石窯は(石窯小屋と言った方が良いかな)庭先にあって、そこのカウンターで注文する。ピザは8種。そのほかは飲み物だけ。とりあえず定番のマルゲリータとアンチョビのピザを。
 終日曇り予報だったものの結構日が出てきて、古民家の室内ではなく外のテーブルで食べたくなる感じになる。白ワインかビールを飲みたいところをグッとこらえて僕はノンアルビールで。勿論嫁さんはビール。ビールはハイネケンだった。
『ビラパワ』ピザ・メニュー
『ビラパワ』ドリンク・メニュー
『ビラパワ』ガーデンから見た青空
 僕等が店に入ったのは1時半頃。他にお客さんは古民家の店内の1階と2階にそれぞれ1組ずつ。その2組のオーダーが焼きあがったあと僕らのマルゲリータが石窯に入り、結構すぐに出てきた。石窯の火力のおかげか? マルゲリータのバジルは、まさに今そこで摘んだフレッシュなヤツ。
『ビラパワ』マルゲリータ
↓庭先にはこのバジル他にも自家製ハーブが色々…。
『ビラパワ』庭先のフレッシュ・バジル
↓こっちがアンチョビ(と玉ねぎ)のピザ。
『ビラパワ』アンチョビ(と玉ねぎ)のピザ
 写真の通り、見るからに美味そうなピザが出て来たけど、目の前の石窯で焼いているところを見て、天気が良い明るい庭先で食べられて、そりゃぁ〜不味い訳が無いんだけど、本当にモチモチふっくらで美味かった。たまたま数日前に都心で某イタリア人の名前を冠するチェーン店で食べたピザより美味いと思った(あれだって不味くは無いけど)。本当に優しい味のピザ。

 古民家の店内も石窯の小屋の中も庭先も、結構色々細かいモノが沢山飾られていて年月を感じたので、もう店を始めて随分長いのかな?と思ったら意外に最近で2011年オープンだった。まだまる4年。実はご主人は同じ県内の加須市で造園師(多分今も)をしていたらしい(違う場所だったかも。うろ覚え)。で、ここはご主人の実家で数年前に戻って来たそうだ。…なので、庭先やらなんやら結構自分たちで少しずつ手作りで拡充させていったらしい。ピザ3種でスタートしたそうで。

 ピザの直径は25cmほどでペロっと食べてしまった。…ので追加。3枚目は“自家製”に惹かれてベーコンのピザ↓
『ビラパワ』自家製ベーコンのピザ
 ペーコンは添加物を入れて無いということで赤味は無いんだけど、これも美味い。地元で採れたキタアカリのスライスも入っていて実に良く合う。あぁ、本物のビールが飲みたい…。
 「そう言えば、忘れてました」と、自家製ハラペーニョソースを出してくれた。凄く自然な辛さで、二人して汗を拭きながら3枚目を味わった。

 ビラパワには犬と猫が一匹ずつ居て、猫はどこかで寝ているらしく見当たらなかったんだけど、僕がピザを注文している間に嫁さんが犬ちゃんを暫く撫でていて、注文終わったので写真を撮ろうと近づくと、何故か数歩遠ざかって一旦止まって僅かに振り返る。で、また僕が近づくと数歩遠ざかって止まり少しだけ振り返る。結局マトモに撮らさせてくれなかった。どちらかと言えば僕は動物には好かれる方なんで、微妙にショック…。
『ビラパワ』犬
 さて、3枚目を食べ終わった頃には先客の2組は店を出ていて客は僕らだけになった。ピザ焼きの任を解かれたご主人は、農作業をしに裏の方に行ってしまったのだけど奥さんとは暫くでお話しできて、僕らにとっては興味深い話しを色々と聞くことができた。田舎でお店を出すということは…みたいなのとか。
 誰も居なくなったおかげで、古民家の店内も隅々までゆっくり見ることができた。ホントにいい感じ。色々と苦労もあったろうプロセスを一切無視して簡単に言ってしまうけど、ちょっと羨ましい。

↓入り口側から見た古民家側。
『ビラパワ』吹き抜け
↓土間には薪ストーブが。
『ビラパワ』土間
↓土間の上は吹き抜けになっている。
『ビラパワ』吹き抜け
↓倉庫から出てきたという看板。
『ビラパワ』倉庫から出てきたという看板
↓二階はその昔、蚕を飼っていた屋根裏だったそうで。
『ビラパワ』二階
↓二階からの眺めはいい。
『ビラパワ』二階からの景色
↓アンティークなものもチラホラ。
『ビラパワ』階段途中のビクター犬
『ビラパワ』2階の柱時計
『ビラパワ』裸電球
『ビラパワ』の扇風機
『ビラパワ』栓抜き
↓わざわざ職人に昔の手法で張って貰ったという天井の電線。
『ビラパワ』昔の手法で張って貰ったという電線
↓立派な梁。昔は屋根裏で蚕を育てていたらしい。
『ビラパワ』二階の梁

 ビラパワのブログに出ていたんだけど、奥さんは子供の頃にタイのバンコクに居たらしく、その頃住んでいたアパートの名前が『ビラパワ』で(今は改装されて結構旅行者の人気のホテルになってる様で)、そこから取った名前だそうで。タイのビラパワには行けないけど、ここにはまたすぐ…今度はバイクで来る。


 ビラパワを出たあと長瀞の川縁に少し寄ったんだけど、そのとき嫁さんが近くにいたカップルに頼まれて、記念写真を撮る図↓
嫁さんが川縁でカップルを撮る図
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MTV UK歴代ヒット80's & 90's

 十勝旅行記が終わったら書こうと思ってた小ネタ。

 去年末にMTVで、80年代と90年代のUK歴代ヒット曲をまとめて流す番組がやっていて、普段MTVなんて番組表すら見ないんだけど、たまたまそれを知ったので録画した。

 10代、20代の頃は洋楽…特に英国系…が大好きだったので、80's〜90'sのUK歴代ヒットソングというのは、まさしく僕にとって音楽的青春時代。LP/CD代にいくらつぎ込んだことか…。
 そんな感じだったのが、2000年頃を境にヒットチャートを聴かなくなってしまったので、さすがに80'sの曲は古臭く感じるものの、90'sの曲は未だについ最近の様に感じてしまうんだけど…。

 しかし、改めて今回この番組を観て(聴いて)思ったのは、僕が自分で思っている以上にミーハーだったことだ。
 僕は当時(特に10代の頃)全てでは無いけどちょっと日本の音楽を馬鹿にしていて、ちょうど“第2次ブリティッシュ・インヴェイジョン”全盛で“ベストヒットUSA”ですら半分以上はイギリス系のバンドの曲が流れていた時代で(そのせいで、特に興味のない同級生なんかは大半をアメリカのアーティストだと思っていたのが、なんだか妙に悔しかった)、「英国ロック/ポップこそハイセンスな音楽」と思っていたもんで、千葉の田舎の中学・高校時代の同級生達が、日本のアイドルやグループの曲で盛り上がってるのをもの凄く蔑んで見ていた。なんてミーハーでレベルが低いんだ…と。

 僕が洋楽を聴くようになったのは中1の頃で、テレ東で夕方5時半から60年代にアメリカで放映された『ザ・モンキーズ・ショー』(デイ・ドリーム・ビリーヴァーのTHE MONKEESのドタバタ番組。毎回最後に彼らの曲の演奏がある)の再放送にハマったのが始まり。帰宅部だった僕は毎日早々に家に帰るのが楽しみだった(当時ビデオデッキなんてウチには無かったので)。
ザ・モンキーズ・ショー
 で、その頃イギリスのバグルスの“ラジオスターの悲劇(Video Killed the Radio Star)”という曲がヒットし、その不思議なおもちゃっぽい音質(ヴォコーダーはおろかシンセサイザーという言葉すら知らなかった)に興味を惹かれるのとほどんど同時に、イエロー・マジック・オーケストラ(と書いたら今の若い人には解らないだろうな)を知って脳天直撃を喰らったのがきっかけで、当時彼らと付き合いのあったJAPAN(Xは決して付かない)や、YMOとよく比較された大御所のクラフトワークやディーボ、まだニュー・ウェイヴっぽさが残っていたウルトラヴォックス、ボーカル以外全員シンセのデペッシュ・モード等の、最初はテクノ、ニューウェイヴ系からブリティッシュ系にどんどん引き込まれていった。
 そういう流れがあったので、千葉の田舎の中高生だった僕は、ハイセンスな音楽を聴いてるんだぜ!…という意識があった。

 ただ、当時の“第2次ブリティッシュ・インヴェイジョン”の時代は、どの曲もメロディアスで聴き易いうえ(だから売れたんだろうけど)、シンセサイザーやサンプリングと言った電子楽器が急激に発達した時代でもあり、どんなジャンルのアーティストでもどんどんそのテクノロジーを取り入れていった時期だったので、どれもこれも“テクノじゃん!”と聴く様になる。今思えば、ブリティッシュ系やそれに近い曲調ならなんでも良いという感じだったかも。

 で、今回の当時の『UK SUPER HITS』と括られた曲を一挙に改めて観る。

頭の印はそれぞれこういう意味。
------------------------------------------------------------
◯=この曲の入っているアルバムを持っている
△=この曲は無いがこのアーティストのアルバムは持っている
×=このアーティストのアルバムは1枚も持って無い
------------------------------------------------------------

 実は80's BestみたいなCDは何枚か持ってて、それを入れるとほぼ100%持ってることになるんで無視したけど、それぞれ別個に買ってるのに、20年間でわずか数十曲のBEST HITに入る曲やアーティストのアルバムを、これほど実際に買って持ってたとは…。熱にうなされた中高大時代と同期する80年代の驚くべき網羅率はともかく、社会人になって少し醒めてきた90年代の曲ですらこの有様…。
 なんだ、僕もただのミーハーだった訳だ…。

『UK SUPER HITS HISTORY』
※( )内は邦題があったもの。原題を短縮した場合も含めて。

1980-1989
△ THE ROLLING STONES:Start Me Up
△ THE POLICE:De Do Do Do Da Da Da Da(ドゥドゥドゥ・デ・ダダダ)
△ GUEEN with DAVID BOWIE:Under Pressure
◯ HUMAN LEAGUE:Don't You Want Me(愛の残り火)
× ADAM ANT:Goody Two Shoes
◯ DURAN DURAN:Hungry Like the Wolf
◯ CULTURE CLUB:Karma Chameleon
◯ FRANKIE GOES TO HOLLYWOOD:Relax
× NENA:99 Luftballons(ロックバルーンは99)
◯ EURYTHMICS:Sweet Dreams (Are Made of This)
◯ KAJA GOO GOO:Too Shy(君はトゥー・シャイ)
◯ DAVID BOWIE:Let's Dance
◯ THE POLICE:Every Breath You Take(見つめていたい)
◯ YES:Owner of a Lonely Heart(ロンリー・ハート)
◯ BAND-AID:Do They Know It's Christmas?
◯ THE STYLE COUNCIL:Shout to the Top
◯ WHAM!:Wake Me Up before You Go-Go(ウキウキ・ウェイク・ミー・アップ)
◯ DURAN DURAN:The Reflex
◯ DEAD OR ALIVE:You Spin Me Round
× GUEEN:I Was Bone to Love You(ボーン・トゥ・ラヴ・ユー)
◯ DAVID BOWIE & MICK JAGGER:Dancing in the Street
◯ SADE:Smooth Operator
◯ BANANARAMA:Venus
◯ A-Ha:Take on Me
◯ SWING OUT SISTER:Breakout
× THE PRETENDERS:Don't Get Me Wrong
◯ GENESIS:Invisible Touch
× EUROPE:The Final Count Down
△ KYLIE MINOGUE:I Should Be So Lucky(ラッキー・ラヴ)
◯ RICK ASTLEY:Never Gonna Give You Up(ギブ・ユー・アップ)
× MARTIKA:Toy Soldiers(おもちゃの兵隊)
◯ GEORGE MICHEL:Faith
◯ STING:An Englishman in New York
◯ U2:With or Without You
× THE STONE ROSES:I Wanna Be Adored
× THE LA'S:There She Gose
× ELVIS COSTELLO:Veronica

1990-1999
◯ ERIC CLAPTON:Tears in Heaven
◯ DURAN DURAN:Ordinary World
◯ SIMPLY RED:Stars
◯ U2:One
◯ UB40:Cant's Help Falling in Love(好きにならずにいられない)
◯ BRYAN ADAMS, ROD STEWART & STING:All for Love
× JESUS JONES:Right Here, Right Now
× PRIMAL SCREAM:Rocks
◯ RADIOHEAD:Creep
◯ BLUR:Girls and Boys
△ OASIS:Whatever
◯ ACE OF BASE:The Sign
× THE CRANBERRIES:Dreams
◯ SHAMPOO:Trouble
◯ THE CARDIGANS:Carnival
◯ ETERNAL:Power of a Woman
◯ TAKE THAT:Never Forget
◯ SWING OUT SISTER:Now You're Not Here(あなたにいてほしい)
◯ ERIC CLAPTON:Change The World
× ELTON JOHN:Candle in the Wind
◯ JAMIROQUAI:Virtual Insanity
◯ SPICE GIRLS:Wannabe
× LOS DEL RIO:Macarena(恋のマカレナ)
△ OASIS:Don't Look Back in Anger
× PULP:Common
× MANIC STREET PREACHERS:A Design for Life
△ PAUL WELLER:The Changingman
△ BLUR:Song 2
△ RADIOHEAD:Paranoid Android
× BJORK:All is Full of Love
× CHUMBAWAMBA:Tubthumping
× MEJA:All'bout the Money
× DES'REE:Life
× ELVIS COSTELLO:She
◯ UNDERWORLD:Born Slippy
◯ THE CHEMICAL BROTHERS:Hey Boy Hey Girl
◯ PET SHOP BOYS:New York City Boy

 個人的には80'sにPETER GABRIELの“Sledgehammer”が入って無いのが最大に解せない。MTVチャートだから尚更。あと、ACE OF BACEを入れるなら“All That She Wants”じゃなかろうか?とか、PET SHOP BOYSが80'sに1曲も入って無いのに90'sで“New York City Boys”かよ?…とか。まぁ、でもパッと思いつく違和感はこのくらい。
ピーター・ゲイブリエル『スレッジハンマー』のワンシーン
 しかし、80'sのプロモはまだ予算も掛けられなかったり、今から見れば時代性もあるから仕方ないけど、それにしても見ているこっちが恥ずかしくなるのがちょっと多い。今回の中でのワースト1位は、DEAD OR ALIVEの“You Spin Me Round”。↓この恥ずかしい演出を是非。


 で、逆に今回改めて観て未だに斬新でアーティストの凄さを感じたのが、少し前にカップヌードルのCMでも映像が使われてた、コレ↓

 JAMIROQUAIの“Virtual Insanity”なんだけど、一体どのくらい緻密に動きを作り込んだものなのか、あるいはジャミロクワイのアドリブなのか…どっちか解らないけど、いずれにしてもこの人の才能あってこそで成立するこのプロモのアイデアと出来栄えは改めて感心した。この曲はホントに素晴らしいし。

 普段家で音楽を聴かなくなってもう何年も経つんだけど、こうやって良い曲並べて聴くと、たまには良いなぁ〜と思う反面、最近の曲が全然耳に入って来ないのは(絶対どこかで聴いてるはずなのに)、やっぱりもう好みが受け付けないんだろうな。ジジイ化だ。それを正す気にはなれないけど…。
 ちなみにヒットチャート系で、アルバムを買うまで気に入った一番最近のアーティストは、多分LINKIN PARK。なんとか2000年代のバンドだ…。Jazzを別としたら、その後買ったアルバムは昔から知ってるアーティストの新譜か、昔買いそびれてた古い盤しかない…かな。

 とにかく、当時は音楽好き、洋楽好きの音楽人間を自負していたんだけど、ただのミーハーだったことを今更ながら自覚させられた件…だった。良いプロモ・コレクションのBlu-Rayが出来たけど。
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実家。元旦。

 順番が逆になるんだけど、元旦に実家でFBにアップした写真がちょっと良かったんで、こっちにも上げておこう。

 お袋が死んで初めての正月は、親父がお雑煮の準備をしておいてくれてた(記憶にある限り親父が作ったのは多分初めて)。嫁さんと一緒に土産に持って帰った栃木の純米吟醸と一緒に、初飯。どっちも美味かった。
元旦の初飯。
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初詣。

 大晦日の夜から48時間滞在で僕の実家帰省から戻り、昨日3日が嫁さんの正月休み最終日だったので(という僕も今日から仕事開始)初詣に行って来た。実家でも元旦は夫婦二人で着物を着ていたのだけど、お正月最後に着物でちょっと出掛けたかったのもあり…。
 ところで喪中の初詣ってどうなんだろう?と思って調べてみると、お寺は「◯」、神社は「△」ということらしい…って、特に気にしてた訳じゃ無く単に興味本意で。

 近所だけど一度も行ったことの無かった“東京大仏”のある乗蓮寺にでも行こうと思ったら、昼まで寝ていたせいで15時45分閉門に間に合わず(早ぇ〜よ)。他に近場で思いつく場所も無くて去年と同じ巣鴨へ。
 着いたのはほとんど日が暮れる時間だった。商店街のシャッターがは少しずつ閉まる時間帯ではあったけど、まだ屋台の出店はいくつも開いていて人出もそれなりにあり、なんとなくお祭りの雰囲気があるのが良い。いや、お祭りと言うより下町の縁日か。老舗の店先でお煎餅を買い、屋台の玉こんにゃくを食す。

 去年は色々慌ただしく過ぎたけど良いことも沢山あった。今年も良いことが沢山ありますように…と願掛け。まっ、自分(達)次第だ。今まで通り毎日楽しんで暮らそう。

 帰りがけに南口の焼き鳥屋で一杯飲んで帰った。我が家の正月終了。
初詣巣鴨1
初詣巣鴨2
初詣巣鴨3
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